梨子「頑張る貴女を応援してるよ」

作者:nagichanlove
「んんっ……今何時……」

寝ぼけ眼のまま、枕元にある目覚まし時計へ目をやると、まだ深夜の3時。
「変な時間に目が覚めちゃったなぁ」と思いながらのっそりお布団から這い出て、トイレへ行くため階段を降りました。
用を足して部屋まで戻ろうとすると、なんと廊下の窓から月明かりに照らされた人影が一つ。砂浜の方へ走って行くのを目にしてしまったのです。

「こんな夜中に……まさか」

人影の正体に心当たりがある私は、居ても立ってもいられなくなり外へ飛び出しました。

11月の夜更けともなれば外は相当冷え込んでいて、肌寒さを感じて身震いしてしまいます。
夜空にはアンドロメダ座とペガサス座を形作る、秋の大四辺形がキラキラ瞬いていました。
ただ、実りの秋が終わりもうじき冬が訪れる寂寥感に浸る余裕など、砂だらけになった練習着姿の彼女には無いみたいです。

「ぐあっ! いったぁーっ」
「大丈夫?」

ロンダートからバク転を決めようとするも、勢いが足りず最後まで回り切れなくて、背中を地面へ打ち付ける千歌ちゃん。彼女が痛みに喘ぐ様に堪え切れなくて、急いで駆け寄って右腕を伸ばしました。

「梨子ちゃんっ!? なんでこんな遅くに?」
「こっちの台詞よ、それは。いくら土曜日だからって、ここまで早く起きて練習しなくても」
「いや、それはわかってるんだけど」

お母さんに叱られた子どものように、ばつが悪そうな顔をする千歌ちゃん。握った右手を引っ張り上体を起こしてあげたものの、私と目を合わせてはくれません。

「だけど?」
「一度目が覚めちゃうと、なかなか寝付けないんだ」
「そっか……でも、ちゃんと休まないと駄目だよ。きちんと寝られてるの?」
「うん……ばっちり」

そう言い淀むと、彼女は首をゆっくり左へ捻りました。

「本当に?」
「う、うん」

首を右へ傾け千歌ちゃんの顔を覗き込むと、細められた緋色の瞳の下にくっきり隈が出来ていました。

「ほんと、嘘が下手ね。そんな不健康そうな顔してても、全然説得力ないよ」
「……ううっ」
「昨日は何時間寝られたの?」

顔をしかめて呻く下っ端リーダーへ、すかさず確認を取ります。
東京のイベントで良い結果を出すため、2年前に果南ちゃんら3年生の3人が作ったフォーメーション。
来週末の地区予選で披露する「Miracle Wave」にて、今のAqoursに合わせ9人用に作り直したもので行くと決めたのが5日前。
そして「やれることは全部やりたい」と、今回センターを務める千歌ちゃんが宣言したのも5日前。
なのでもしかしたら、彼女はあの日からずっとロクに寝られないでいるんじゃないか……と不安が脳裏をよぎったのです。

「えーっと、昨日は10時ぐらいにはもうウトウトしてきて……それで電気消したから……5時間ぐらい」
「5時間っ!?」

深夜のアルバイトもしていない女子高生としてはあるまじき睡眠時間の短さに、つい驚きの声が出てしまいました。

「じゃあ一昨日は?」
「……だいたい同じ感じ」
「ってことは、3日前も4日前も?」
「……ま、まあ。うん」

問い詰めてみれば案の定、千歌ちゃんはここ数日睡眠が足りない状態で大技の練習を続けていた……とはっきりしたのです。
大会本番の日が近くなるも、まだ自分の中で納得がいく形に出来ていなくて不安が募る。私もピアノコンクールの練習に明け暮れていた頃に、何日も寝られないでいた経験があるので彼女が焦るのはわかるんだけど。
わかるんだからこそ「ここはきっちり注意しなくちゃ!」と決めたのです。

「そう……でもせめて、陽が出るまでは休んだ方がいいよ。目を閉じて横になってるだけでも、少しは疲れが取れるから」
「いや、でも……」
「じっとしてるのが辛いのはわかるよ。でも無理して怪我でもしちゃったら、元も子もないんだよ」

怪我だけではありません。心身の疲労が限界に達して、いつか倒れてしまうんじゃないか……最悪の未来を想像すると、こっちまで眠れなくなりそうです。

「それはそうだけど……早く出来るようにならないと、だし」
「急がば回れ、だよ。焦ったっていい結果は出せないよ」
「わかってるよ、そんなこと」

千歌ちゃんがムスッと頬を膨らませ、目尻を吊り上げ睨み付けてきました。
ねえ、なんで私がこんなにも心配してるのに、貴女は聞き入れてくれないの?
ねえ、なんで私がこんなにも気に掛けているのに、貴女は無視するどころか不満そうにするの?
再三にわたる注意に対し「でも」「だけど」と言い訳しようとばかりする態度へ苛立ちが募り、とうとうブチッと自分の中で何かが切れる音が聞こえた気がしました。

「千歌ちゃんの分からず屋っ! 人の話を聴かない人が、何やったって上手くいく訳ないでしょ!」

頭に血が上っているのはわかっています。
心が怒りに呑まれていくのもわかっています。
それでもこれだけキツく咎めなければ、彼女は止まってくれないのだから。
心を鬼にして放った叱責の言葉へ、彼女が向けたのは今にも泣き出しそうな曇り顔。そして、

「梨子ちゃんにわたしの気持ちなんて、わかんないでしょっ! 身内以外にも応援してくれたり、褒めてくれた人がいた梨子ちゃんにはさっ!」

という悲痛の叫びでした。
言い切ると同時に、千歌ちゃんの瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れて止まりません。
彼女からの予想だにしなかった反撃には、こちらも驚きを禁じ得ませんでした。
千歌ちゃんはずっと、私を羨んでいたの?
あるいはずっと、私を妬んでいたの?
8か月前、初めてここで話をしたあの時から、彼女はずっと自分と私を比べて惨めな気持ちになっていたの?
頭からスッと血の気が引き「取り返しがつかないことをしてしまったんだ……」という悔恨の念が浮かんできます。
未だ塞がることがない、彼女の深い深い心の傷。私はそこへ塩を練り込むような真似をしてしまったのね……と。

「……ごめん。梨子ちゃんなりに、気を遣ってくれたってのに」

気が動転していた私よりも先に、袖で涙を拭った千歌ちゃんが謝罪の言葉を口にしました。眉が垂れ下がり棄てられた子犬のような表情から、彼女もまた後悔しているのが伝わってきます。

「う、うん。私の方こそ、ごめんなさい」
「うん……先に戻ってて。わたしももう休むから」
「……わかった」

「休む」という単語がやっと出てきたことに安堵したので、回れ右して砂浜を後にしました。

石階段を上がり切ったところで、後方から『だぁーもぉーっ、わたしのバカチカぁ!』と叫び声が耳に入ってきました。

『どうしてあんなこと言ったんだよぉ、梨子ちゃんはわたしのこと心配してくれてるってのに……』

私がいなくなったのを確認した上で吐き出しているのか。
あるいはまだ近くにいると考え、本音を聴いてもらいたいからなのか。
どちらかは判断に困るところですが、普通怪獣の嘆きに私の胸も苦しくなります。

『嫌われたらどうしよう……見限られたら、おしまいなのに……』

自分で自分が許せない、千歌ちゃんの心は私が想像していた以上にボロボロになっていたのでしょうか。
睡眠不足と、心身の疲労と、何度やっても成功しないの三重苦に祟られる彼女の痛み。それをどうにもできない自分の無力さが、嫌で嫌で仕方ありませんでした。

『みんな応援してくれてるってのに……ううっ、ううっ』

自分から大役を買って出たのに、いつまでも結果が出せないのが情けない。絶望に打ちひしがれる彼女の嗚咽に堪えられず、小走りで車道を越えて自宅まで戻りました。

「改めて、朝になったらまた謝ろう」

そう自分へ言い聞かせ、ベッドへ横になって布団を被りました。
物心ついた頃からピアノへ打ち込んで、家族や先生以外の人達からも応援されて、いくつかのコンクールで入賞したことがある私。
対して千歌ちゃんはスクールアイドルの活動を始めるまで、そうした経験がなかったのではないか。
彼女が辿った境遇を想像しているうちに、私の意識はまどろみの中へ沈んでいって……。

◇◇◇

「あいたっ!? ……って、ここどこ?」

寝返りで壁に額を打ち付けた痛みで、私はまた目覚めたのだけど。
なぜかそこは見慣れた自分の部屋ではなくて、薄暗くて四方を簡素な仕切りで囲まれた窮屈なスペースでした。一角にはパソコンのディスプレイと本体が置かれた棚があり、それを視認してようやくここがどこなのか把握することができたのです。

「ネカフェ? どこの?」

答えはすぐに見つかりました。キーボードが置かれたスライド式の引き出しの上に、手持ちサイズのクリップボードに挟まれた入店伝票が置いてあったからです。

「メディアカフェ・ポパイ沼津店……だけど……」

伝票の一番上にある店名に安心するよりも先に、真下に印字された入店時刻に自分の目を疑いました。

【入店時刻:2009・6・14(土)21:45】

「いや、8年前って。しかも6月だし」

そっか、これは夢なんだ。
そう考えれば全部納得がいくもの。
8年も前にタイムスリップしちゃうだなんて、そんなSF映画みたいなことあり得る訳ないんだから。

「……痛い」

摩訶不思議な夢の世界から脱出しようと、右手で頬をつねってはみたものの。「あっ、夢だったんだ」と自分のベッドへ戻りました……とは残念ながらなりませんでした。

「じゃあ冗談抜きで過去へ戻った、ってこと?」

あまりにも現実離れした事態ながらも、私はそれほどパニックを起こしてはいませんでした。
胸元に薔薇の花が刺繍された下ろしたての白いワンピース、そのポケットにはお財布が入っているのが確認できましたし。伝票の隣にはピンク色のデジタル腕時計も置いてあります。
「これでスマホがあれば心強いのに」と残念に思いましたが、まだ当時は発明されていない未来の技術なので、存在が許されなかったのでしょう。

「えーっと、今は9時40分。12時間パックみたいだから、もう出なくちゃ」

腕時計を着け、伝票を持って、お出かけ用のスニーカーを履いて。
私はスタート地点から出発しました。
ノクターンを介して善子ちゃんと共通の経験をして以来、私は「全てに意味がある」と強く信じるようになりました。
であれば、この幻だか時間跳躍だかはっきりしない事態にだって、何か意味はあるはず。ゲームの主人公にでも成り切った気分で、このクリアすべき目標も提示されていないミッションへ挑むしかないでしょう。

受付で利用料1,890円を店員さんへ支払い、まずはネカフェを後にしました。また彼女──「ここ」へ放り込まれて初めて出会った、自分以外の人間──が精巧に作られたCGモデルには感じられなかったことで、いよいよVR説も否定されタイムスリップという線が現実味を帯びてきたのです。

「この初夏の風、この太陽の日差し……現実ね」

すっかり見慣れた沼津駅前南口には、老若男女問わず多くの人達が各々のやりたいことに従って行き交っていました。
さあ、考えるのよ桜内梨子。
私が何の前触れもなく、8年前の沼津で目覚めた理由を、意味を。
真っ先に浮かんだのは、両親に手を引かれた幼い頃の自分の姿。
でもすぐさま「それは正解じゃない」と直感が告げた気がします。
お財布の中には千円札が3枚と合わせて500円ほどの小銭が入っているから、行こうと思えば秋葉原にある桜内家のアパートまで行くことは可能だけど。
「行ったところで、何をするの?」という話になります。
お母さんへ「私を産んでくれてありがとう」とでも告げるの?
お父さんへ「いつもお仕事お疲れ様」とでも伝えるの?
それとも8歳の頃の私へ「貴女の未来は輝きに満ちてるよ」とでも教えるの?
なんだか「過去の家族や自分へとメッセージを贈る」というのは、不正解な気がします。ましてや過去の自分と対面した瞬間、不測の事態が起こらないという保証はないでしょうし。
ほら、いわゆるタイムパラドックスが起こって私の存在が消滅するとか、ドッペルゲンガーみたいに死の呪いが降りかかるとか。

となると、次に浮かんできた「あの娘の下へ向かう」のが正解に思えてきます。
本当は凄い力が眠っているのに、自分を「普通だ」と卑下しているあの娘。彼女が自信を持てない原因は、本人が話してくれた範囲で一応理解してはいます。
そしてこの日付に飛んだからには、彼女が余計にコンプレックスを拗らせてしまう原因となる事件が起こった。そう見て間違いなさそうです。
救うだなんて、おこがましいのはわかっています。
ましてや彼女が少しでも楽になるのを望んでいたのに、逆に心の傷を抉ってしまったばかりの自分にその資格があるのか。

ええい、もうウジウジいじけて立ち止まっているのはおしまい、って決めたんでしょ!
だったらまずは行動あるのみ!
行ってみなくちゃ、会ってみなくちゃ、どうすればいいかなんてさっぱりなんだから!

とりあえず十千万まで向かおうと、8番乗り場から内浦行きのシャトルバスに乗り込みました。
窓の外から見える駅前通りの賑わいも、狩野川のキラキラしたせせらぎも、8年後の現代とほとんど変わらない。日々せわしなく変化し続ける都会とは真逆な、第二の故郷の様相に安心感を覚えます。
「8年前の彼女はどんな娘だったのかな?」と想像を巡らせていると、口野橋の辺りで乗車した若い夫婦の会話が耳に入ってきました。

「ふぅ、だいぶ重たいなぁ。作り過ぎたんじゃないかい?」
「そうかなぁ? あの子学校に入ってから、いっぱい食べるようになったし大丈夫よ。余すようなら、お隣さんにお裾分けすればいいんだし」
「他所様もウチみたいに、食べきれないほど作ってなければいいけどね。っていうか、今ウチで一番食べ盛りなのは君だろうに」
「そう、かしら?」
「そうだよ。そんなおっきなお腹して」
「だったら、こんなおっきなお腹した私の方が大変なんだから、重たいなんて言わないの」
「ははっ、それもそっか」

大きなバスケットを持った旦那さんと、大きなお腹を抱えた奥さんの話と。加えて今日が6月の日曜日であることから察するに、どうやら二人は子どもの運動会へ向かうみたいです。
だとすれば私が会おうとしている彼女だって、同じく運動会に出ているのではないか。
そう判断し、彼らに倣って農業会館前のバス停で降りました。

◇◇◇

時刻は午前の11時、おさかな食堂やまやさんの横から坂を5分ほど上がり、目的地である内浦小学校まで到着。

「うん、予想は当たってたみたい」

グラウンドの端にはざっと100人近い大人達が、レジャーシートへ腰を下ろしていました。中にはビデオカメラを片手に、じーっと短パンにTシャツ姿の我が子を撮影し続けるお父さんもいます。
さあ、ここからが本番です。この喧騒の中からお目当てのあの娘を捜し出し、どんなことをしてあげればいいのか。もしこれが神様がくれた彼女を「癒す」チャンスだというのなら、なんとしても成功させたいから。
保護者席まで入って捜し回る訳にもいかないので、その外側を歩いていると。滑り台やブランコが設置された端の方で、赤い面を向けた紅白帽を被った低学年ぐらいの女の子が4人、円になっているのが視界に入りました。
「次の競技の前に、円陣組んで気合入れてるのかな?」と一瞬思いましたが、何やら様子がおかしいようです。

「やーいやーい、弱虫銀河の泣き虫星人!」
「……ううっ、そんな、こと──」
「なぁーにぃー?聞こえなぁーい!」
「ムカつくのよね、アンタが近くにいると。いっつも楽しくなさそうで、こっちまで気分悪くなるのよ!」
「嫌なら学校来なけりゃいいでしょ。正直不愉快なのよ!」
「えっ……いや、ちょっと」

様子がおかしいも何も当然のこと、目の前で行われていたのは陰湿な虐めそのものでした。
ただでさえ大人達は我が子の応援に夢中な上、遠目に見れば私同様単に友達同士でおしゃべりしているだけにしか映らないはず。仮に「これは虐めだ」と気付いた人がいたとしても、口撃を受けているのが身内でもなければ止めに入ったりするでしょうか。
「もしかして、円の中で口撃されているのは『彼女』ではないか」という予想が浮かぶよりも先に、私の足は動きました。
そして、私の口も。

「そこで何やってるの! 寄ってたかって酷いじゃない!」
「えっ!?」

渾身の叫び声に驚き、虐めっ子4人はもちろん円の中心にいた白い帽子の子も一斉に私の方を向いたのです。

「ちょっとそこの姉ちゃん、関係ないんだから口挟まないでよ!」
「そうよ。このシャチの威を借るアザラシに、お灸を据えてただけなんだから!」

年長者の介入へ反発する虐めっ子達を無視して、私は真ん中で縮こまっていた少女の手をぎゅっと握りました。

「大丈夫? 立ち上がれる?」
「う、うん」
「そっか。じゃあ、ここから離れましょ」
「いや、でも……」

顔を伏せたままの少女を半ば強引に引っ張り、私はしゃがんでいたその子を立たせました。

「そんなウジウジしてたら『あの2人』からも嫌われるよーだ!」
「自分じゃ何にも出来ない腰巾着が、いつまでも助けてもらえると思うなよ!」
「……そう、なっちゃうから」
「聴かなくていいの」

捨て台詞を無視するよう促して、私達はその場から立ち去ったのです。

「ありがとね、お姉ちゃん。でも、余計なお世話だったのに」

こちらを見上げ、お礼と不満を口にする少女。そのまん丸な緋色の瞳と、帽子からはみ出たみかん色の前髪には、もちろん心当たりがありました。
そしてすぐさま、それが間違いではないという証拠も得られました。

「チカちゃんっ、こんなトコにいたんだね。心配したんだよ」
「安心して、チカ。先生呼んだから、もう意地悪してこないはずだよ」
「よーちゃん、かなんちゃん……ごめん」

私達の元へ駆け寄って来た2人の少女にも、言わずもがな心当たりがあります。
彼女と背格好の似たアッシュグレーのセミロングヘアーの娘は曜ちゃんで、少し背が高いダークブルーのポニーテールをした娘は果南ちゃん……の8年前。

「じゃあやっぱり、貴女が千歌ちゃんなのね」

この間、千歌ちゃんと一緒に十千万の倉庫を掃除した際、奥に眠っていたアルバム。それに挟まっていた写真の中でも、この3人が仲睦まじく遊び回っているものが相当数あったので間違いないでしょう。

「う、うん。そうだけど……わわっ!?」

ようやく彼女に出逢えた安心感、彼女が酷い目に遭っていたことを悼む気持ち、未来の彼女を傷付けてしまった罪悪感。
いくつもの感情がないまぜになり、堪え切れなくなった私は8年前の千歌ちゃんを力いっぱい抱きしめたのです。

「辛かったんだね、苦しかったんだね……ごめんね、千歌ちゃん」
「はわわっ!?」
「このお姉さん、チカちゃんのいとこ?」
「ううん、チカも知らないよぅ」
「この前『道を教えてあげた』って人じゃないの?」
「違うよぅ、あれはおじさんだったもん」
「んじゃあ、そのおじさんの娘がお礼に来たとか?」

さて、どうしたものか。
思わず謝ってしまったせいで、この3人は私が何者かについて色々当てっこしているみたい。根掘り葉掘り事情を尋ねられては面倒なので……こうなったら嘘も方便です。

「う、うん。お父さんの頼みで『あの娘さんへお礼をしてあげて』って」
「そうなんだ。いや、でもお礼なんてほどのこと──」
「人からの好意は、素直に受け取りなさい」
「「うんうん」」

「これから騎馬戦に出るから」という曜ちゃんや果南ちゃんと別れ、私達は半分埋まったタイヤへ腰を下ろしました。お互い右手には出店で買ったみかん味のソフトクリームがあり、ひんやりした食感と甘酸っぱさが改めて「ここが夢やVRの世界ではない」と教えてくれたのです。

「やっぱり『お腹痛い』って嘘つけば良かったかな……」

みかんソフトをちびちび舐めながら、千歌ちゃんが呟きました。虐めっ子達から浴びせられた心無い言葉の数々が、無数の毒矢のように彼女の心へ刺さり精神を蝕んでいるに違いありません。

「そんなこと言わないの。何だって参加することが大事なんだから」
「そんなことないもん。見向きもされないし、バカにされるばかりだもん」

卑怯なことをして楽しようとするよりは、正々堂々していた方がいい。そんな私の主張は、口を尖らせて拗ねた千歌ちゃんには届きませんでした。

「ほら、見てよ」

彼女が左手で指した先は、グラウンドの真ん中でした。そこでは4人一組の騎馬が紅組・白組で合わせて6組、縦横無尽に駆け合いながら相手の隙を伺っています。
どの騎馬も下の娘達は背丈がしっかりし、上の娘は小柄な感じです。「高学年が騎馬役となり、低学年は騎手役」と決まっているのでしょう。
そんな中、一騎だけ明らかに動きが違う騎馬があります。その白組の騎馬は味方が敵の囮になっている間に、素早く後方へ回り込んで紅組の帽子をかっさらっていくのを2度もやってのけました。
白い悪魔とも言うべき騎馬が敵を撃破するたびに、観客席から「うおおっ!」「すげぇ!」「いいぞ、かっけぇ!」と歓声が上がります。
最後は3組もの白組の騎馬が、紅組の騎馬を取り囲んで難なく圧勝に終わりました。

「すごいよね、よーちゃんもかなんちゃんも」
「ああ、やっぱりあの2人なのね」

一騎当千の活躍を魅せた騎馬、その騎手を担った曜ちゃんと真下で支えた果南ちゃんが仲間達と順番にハイタッチ。
高飛び込みの才能に長け、持ち前の陽気さで誰からも好かれていた曜ちゃん。
男の子にも負けない体力の持ち主で、おおらかながらもリーダーシップを発揮していた果南ちゃん。
身体能力でも、人柄の面でも、2人がみんなから一目置かれていたのはこの頃から変わらないようです。

「うん。でも、それにひきかえチカは……」
「千歌ちゃん……」
「チカね、運動会も学芸会もスキー実習もだいっきらい。楽しくないもん、チカだってがんばってるのに」

ほとんど食べ終えたソフトクリームのコーンを握る彼女の右手が、わなわな震えているのに気付きました。

「チカだって、よーちゃんやかなんちゃんみたいになりたいのに……なれないのに……」

コーンが少女の手から抜け落ち、ぽとりと地面へ落ちました。「こんな現実、直視したくない」と言わんばかりに、彼女が空いた両手を開いて自分の顔を覆ったのです。
ああ、千歌ちゃんは幼い頃からずっと、底なし沼のように深い劣等感に浸かったまま生きてきたんだね。
幼なじみ2人のカリスマ性と、それをダシに彼女を貶す虐めっ子達をこの目で見て、ようやく「普通コンプレックス」の全容が明らかになりました。
いつも一緒にいる2人が出来ていることを、自分だけが出来ていない。
いつも一緒にいる2人が称賛を浴びる陰で、自分だけが同じ場所に立てていない。
あの2人と自分を比べてしまい惨めな思いをするばかりか、心無い者達から悪口を言われてどんどん辛くなる。
それらが原因でますます気分が滅入って落ち込んで、その様子を更に馬鹿にされる悪循環。
みんなが楽しみになる学校行事の数々が、ただ一人楽しみに思えないというのは相当なものです。
千歌ちゃんが置かれていた境遇を想像するだけで、目の奥からじんと涙がこみ上げてきました。

「どうしたの? どこか痛いの?」

私が目元を押さえたのに気付いたらしく、千歌ちゃんがタイヤから降りて心配そうに歩み寄って来ました。
こんな風に悲しんでいる人がいたら、自分だって辛いのに放っておけず声を掛けてくれる。紛れもなくこの娘は、私がよく知るあの高海千歌ちゃんなんだね……と痛感しました。

「ううん、大丈夫。ちょっとお友達のこと、思い出しちゃって」
「お友達? どんな人なの?」

8年前のそのお友達が首を右へ傾け、つぶらな瞳で私の顔を覗き込んできます。
さあ、ここまで来た目的を果たすのよ、桜内梨子。
人は誰しも重荷を背負いながら生きるものであり、誰であろうと全てを肩代わりするなんて不可能です。
でも重荷の中身を拝見させてもらい「不要なものは下ろしてもいいんだよ」とアドバイスすることは可能なはずだから。
私は免許を持ったプロのカウンセラーでも何でもないけど、貴女のことが大切だから、助けてあげたいんだもの。

「その娘はね、あんまり自分のことが好きな娘じゃないの」
「自分が好きじゃないの? なんかチカみたいだね」

「みたい」も何も、8年後の貴女本人なんだけどね。口には出さず、心の中でツッコミを入れました。

「そうかもね。いつも輝く太陽へ必死で手を伸ばすんだけど、届かないからってしょんぼりするのも珍しくなくて」
「そっか、がんばり屋さんなんだね」
「うん、頑張り屋さん」

スクールアイドルを始める前は、どうだったか詳しくはないけれど。少なくとも私が目にしてきた彼女は、日々の練習を一生懸命に取り組んでいます。
……一生懸命過ぎて宿題をやる気力が残らないのも珍しくはありませんが、そこもまたご愛嬌だったりします。

「情けないところも多い彼女だけど、いいところだっていっぱいあるんだよ」
「いいところ?どんな?」

こちらを見上げたまま、千歌ちゃんが興味津々そうに尋ねてきました。彼女は何を思いながら、未来の自分の話を聴いているのでしょうか。

「他人のいいところを見つけられるところ。で、それをきちんと言葉にして伝えられるところ」

人を褒めるということは、簡単そうで意外と難しいこと。
相手をきちんと観察していなければ、的外れな言葉が出てしまう。
それでいて敬意を持っていなければ、上から目線になってしまう。
「自分は何一つ他人へ誇れるものなんて無い」なんて思い込んでいる千歌ちゃんだから、他人が持っているものへ目が行ってしまうところはあるのかもしれないけど。
私からすれば人を褒めるのが得意なことだって、十分立派なことなんだからね。

「いい人なんだね、その子」
「うん、とってもいい娘」
「じゃあお姉ちゃんのいいところも、ほめてもらったりしたの?」
「もちろん。数え切れないぐらい」

物心ついた頃から続けてきたピアノの腕前だったり。
歌声や容姿を「プロのアイドル顔負けだね」ってお世辞抜きで持ち上げられたり。
「梨子ちゃんがいてくれたから、わたしは諦めずにやってこれたんだよ」って両手を握ってくれたり。
千歌ちゃんと出逢ってからまだ1年も経っていないのに、私の心の奥にあるアルバムの大半は、彼女と隣り合っている写真で埋まっている気がするほどです。

「そっかぁ、優しい人なんだね。チカも会ってみたいなぁ」
「紹介してあげたいのはやまやまだけど、今は遠くにいるから……ごめんね」

どうしよう……8年前の千歌ちゃんの中で、8年後の千歌ちゃんの評価が鰻登りなんだけど。

「うん、わかった。他にもいいところがあるの?」

幼なじみ2人と自分を比較して劣等感を抱いている千歌ちゃんですが、年が離れている相手だとそうはならないみたいです。

「そうね……とっても勇気があること」
「勇気?」
「うん。何にでも一歩踏み込む勇気」

端から見れば考えなしで無鉄砲な彼女だけど、実際は臆病なところがあって「失敗したらどうしよう」って不安を常に抱えている。
それでも一歩踏み出した後の行動力は目を見張るものがあって、こっちまで「頑張って!」ってエールを送られた気になっちゃう。

「『一番大切なのは出来るかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!』。あの娘の言葉で、自分の殻を破れた娘だって何人もいるんだからね。私だってそう」

千歌ちゃんの屈託のない笑顔が心に浮かび、両手を開いて心臓の辺りで合わせました。どんなに遠く離れていても、彼女の存在は私の中で息づいているのです。

「……お姉ちゃんの勇気も、その人から貰ったものなんだね」
「そう、かもね」

言われてみれば今回の出来事だけでも、千歌ちゃんに逢う前の私からしてみれば随分アクティブに動いてきたかもしれません。
きっと以前なら「過去へ戻った」と知ればパニックを起こして動けなくなったり、虐めっ子達を止めようと大声で叱ったりなんて出来なかったはず。
私は知らず知らずのうちに、貴女の色に染まり始めていたみたいです。

「だからね、千歌ちゃんもその娘みたいに『千歌ちゃんだけのいいところ』を大事にしてほしいの。あの2人と同じことが出来なくたって、いいんだよ」

タイヤから降りて腰を屈め、両手を彼女の肩へ乗せて、紅い瞳をしっかり見据えて。
私が何よりも伝えたかったことを、はっきり言葉にして伝えました。
「貴女の悩みなんて、はっきり言って下らない」と一蹴しているように捉えられてもおかしくはないけれど、それでも構いません。
もちろん何事も出来るに越したことはありませんが、出来ないからって「自分には何の価値も無いんだ」と責めることこそ、何よりも価値の無いことなんだから。

「チカだけの……いいところ? ある……のかな?」
「あるよ、必ずある。私は逢ったばかりだからわからないけど、色々経験していけば見つかるはずだよ」

突き放すような物言いなのは承知で、遠回しに「挑戦あるのみだよ」と背中を押す言葉を選びました。
だって私が隣に居るべきなのは、居たいのは8年後の貴女なのだから。いつまでも「ここ」にはいられないでしょうし、何より私と8年前の貴女とは決して「対等な関係」にはなれないのだから。

『間もなくプログラム9番、障害物競走が始まります。選手の皆さんは、今すぐスタート地点まで集まってください』
「あっ、行かなくちゃ」

次の種目をお知らせするアナウンスへ反応した彼女の表情には、もう一点の曇りも見られませんでした。

「千歌ちゃんの種目? 頑張ってね!」
「うんっ! ありがとね、お姉ちゃん!」

最後に互いの握り拳を軽くコツンと突き合わせ、千歌ちゃんはスタート地点へと駆けて行きました。

◇◇◇

障害物競走はグラウンド内をぐるりと一周走る間に、4つもの仕掛けをクリアしてゆく必要があります。
私は最後に控えた「ある仕掛け」近くの観客席まで歩き、そこで千歌ちゃんを見守ることに決めました。
始まってから10分ほどで1年生と2年生が走り終え、いよいよ千歌ちゃんら3年生が走る番です。

「行けー行けー!」
「負けんなー!」
「気合入れろー○○ー!」

そこかしこから選手達を応援する歓声が上がりました。それらの多くは誰彼問わず参加者全員へ向けられたものでしたが、時折個人の名前も耳に入ってきます。
「だったら私だって」と思い至り、彼らに負けじと「千歌ちゃーん、ファイトー!」と喉の奥から声を張り上げました。
すると声が届いたのか、150メートルは離れたスタート地点からこちらへと手を振る子が一人。
貴女を応援しているのは、決して両親や2人の姉、曜ちゃんや果南ちゃんといった身内だけじゃないからね。私の想いが彼女へ無事伝わったみたいで何よりです。

「位置について、よーい!」

スターターのお姉さん先生がピストルを持つ右手を真上に掲げた後、パァン! と破裂音が鳴り響きました。

「ああっ、出遅れたっ!?」

スタートダッシュに失敗したのか、千歌ちゃんの順位はいきなり6人中4位。
ただ、両腕を振って懸命に走る彼女はもちろん、私だって「行けー千歌ちゃーん!」と声援を送るのを止めたりはしません。
あくまで最初で出遅れただけで、彼女は特別運動オンチでも何でもない。その証拠に徐々にではありますが、少し前を走る3位の娘へと距離を詰めていっています。
千歌ちゃんがその娘を追い抜いたのは、最初の仕掛け「大網」でした。前の娘が網目に腕を通してしまい、手こずる間に悠々とくぐり抜けられたようです。

「よしっ! 次は?」

「大網」から50メートルほど先には、6本の金属バットが置いてありました。それを先に到着した2人が拾い上げ、柄の先端を額へ当て、反対側を地面へ下ろしてコンパスのように回り始めたのです。

「『ぐるぐるバット』ね、回るのは苦手なのよね」

夏合宿のスイカ割りでも、最初にその場で10回転してからだったのを思い出しました。ただし私は明後日の方向へふらふらしてしまい、時間切れまで割れなくてがっかりしたんだけどね。
私や前の2人に対し、千歌ちゃんは平衡感覚が優れているようです。
彼女ときたら一人だけ10回転もしなかったかのように、白線と白線の間をまっすぐ駆けてゆくのですから。
続けて3番目の仕掛け「平均台」も難なく突破して、とうとう千歌ちゃんは1位へ躍り出たのです。
問題は最後の仕掛けです。
「平均台」から再び50メートルほど先には、A4ノートサイズの白い紙が6枚並べてありました。
そうです、まさかの「借り物」です。

「いや、最後に運の要素を入れるのは……」

「ぐるぐるバット」の直後に「平均台」というのもいかがなものですが、ここで一発逆転が狙える仕掛けというのもまた突っ込まずにはいられませんよね。
指示された物をすぐ借りられるか。当たり運に大きく左右される「借り物」ですが、なんと幸運の女神は千歌ちゃんに微笑んでくれたのです。

「あっ、お姉ちゃん! ハンカチ持ってない?」

私の存在に気付いた彼女が、白い紙を持った左手を突き出しながら駆け寄って来ました。

「うん、あるよ!」

紙に書かれた文字を確認した私は、ポケットからみかん色とピンク色のツートンカラーのハンカチを取り出しました。地区予選へ向けた練習を始める前の先週末、行きつけの雑貨屋さんで8年後の貴女がプレゼントしてくれたお気に入りの逸品です。

「ありがと。後で返すねっ!」

空けてある右手でハンカチを受け取った千歌ちゃんは、すぐに急旋回してコースへ猛ダッシュして行きました。
「もしかして今こうしてハンカチを貸すために、私を8年前へ飛ばしたの?」と心の中で神様へ問い掛けました。
もしかしたら私が来なかったら、彼女はすぐにハンカチを借りられなかったのでは? 考えたくもない最悪の光景が脳内に浮かびます。
さすがに「この娘には貸したくない」などと意地悪をする大人はいなくても、たまたま運悪くハンカチを持っている人と巡り会えなかった。そんな可能性は十分あり得るでしょうし。

残すは100メートルの直線を、ゴールへ向かって全力疾走するだけ。今の独走状態なら、千歌ちゃんは1位になれる。
安心感で口元が綻んできた矢先に、悲劇は起こりました。

バタッ。

「えっ?」

残り50メートルほどのところで、いきなり千歌ちゃんが前のめりに転倒したのです。
両手を地面へ付けて立ち上がろうとする彼女を尻目に、追い上げてきた2位の娘がサッと横を過ぎて行きました。
抜かれた千歌ちゃんはというと、ショックで膝の力が抜けてしまい硬直しているようです。
考えるよりも先に、私の感情は爆発しました。
そしてあらん限りの大声で、一生懸命な貴女へ思いの丈をぶつけました。

「諦めないで!!」
「うおおぉっっ!!」

決死の叫びが届いたのか、再び力が戻った千歌ちゃんが前へ跳ねるように立ち上がります。そのまま両腕をブンブン振って、自分を抜いたばかりの娘へ迫りました。

「んなっ!?」

振り返った1位の娘も負けじとペースを上げますが、覚醒した千歌ちゃんがみるみる距離を詰めていって。
ゴールテープを先に切ったのは、

「いやったぁー!!」
「やったね、やったね!」

千歌ちゃんでした。
昂る感情のまま彼女がいるゴール地点へダッシュしたくなりましたが、どうにか踏みとどまってゆっくりその場から立ち去りました。

◇◇◇

グラウンドの外側からさっきのタイヤの辺りまで向かうと、千歌ちゃんと幼なじみ2人が虐めっ子4人組と向かい合っていました。
「まさか先生に叱られた仕返しでもするんじゃ……」と冷や汗が出ましたが、近付いてみると違ったみたいです。

「……さっきは馬鹿にして、悪かったわ」

4人の中で一歩前に立ったリーダー格の娘──よくよく見れば、障害物競走の最後で千歌ちゃんと1位争いをした娘──が、きっちりと頭を下げて謝りました。

「立ち上がったところ、格好良かったわ。弱虫なんて言ってごめんなさい」
「全然ウジウジしてないじゃん、見直したわ」
「腰巾着なんかじゃない、ヨウやカナンに負けないぐらい立派だったわ」

残りの3人もくるりと手の平を返し、30分ほど前まで散々貶していた相手を褒め称えます。

「いまさら気付いたの? チカちゃんは元々すごい娘なんだよ!」
「ま、まあ……みんなチカをちゃんと見てあげて。いきなり褒められまくって困ってるから」

一人冷静な果南ちゃんが、曜ちゃんを含む5人を諭しました。彼女の言葉通り、いきなり褒め殺しにされた当人ときたら、またしても顔を両手で覆っているではありませんか。
嫌なことがあった時だけではなく、嬉しいことに対しても「こんなの嘘だ、認めたくない」と直視するのを恐れてしまうのでしょうか。
おだてられて調子に乗ってしまうのも問題ですが、逆に褒められ慣れてなくて疑心暗鬼に陥るのも困ったものです。

「好意は素直に受け取りなさい。ねっ」
「あっ、お姉ちゃん」

私が声を掛けても、千歌ちゃんは顔から両手を離すことなく、指の隙間からこちらを観察していました。

「千歌ちゃんはやれば出来る娘なんだから、もっと自信持ちなさい」
「お、お姉ちゃんがそう言ってくれるなら」

私のエールに応える形で、彼女はようやく手の仮面を外してくれました。

「ふぅ、これで一件落着かな」

8年もの長きに渡り、千歌ちゃんを苛み続けてきたトラウマ。それを解消する手助けになれたのであれば、この不可思議な出来事にも意味はあったはずです。

曜ちゃん達6人と別れた後「家族を紹介したい」という千歌ちゃんに手を引かれ、私は高海家の席まで案内されました。

「千歌ちゃん、お疲れ様」
「やるじゃん千歌、ナイスな走りっぷりだったな!」

中学生ぐらいの志満さんと、妹とお揃いのTシャツ短パン姿の美渡さんが、大金星を飾った末妹を両側から抱きしめます。

「うん、そこのお姉ちゃんが応援してくれたおかげだよ!」

運動靴を脱いでシートへ座った千歌ちゃんが、私を右手で指しました。

「あら、そうなの。うちの千歌がお世話になりました」

8年前もさして見た目が変わらない彼女のお母さんと、無口なお父さんが揃って頭を下げます。
自分が何か懸命に取り組んでいる時、陰ながら支えてくれる両親や姉妹。私も家族との繋がりを、もっと大事にしたいと感じました。

「せっかくだし、お昼でも食べていきません?」
「父さんが作った弁当、ほっぺが落ちるほど美味しいんだ」
「そういう訳だから、どう?」

高海家の皆さんのご厚意に甘え、彼女らが差し伸べた右手を取ろうとした……のですが。

「あっ」

現実では起こり得ない、起こってはならないものを目の当たりにしたのです。
私の右手は、まるで精巧なガラス細工のように半透明になっていました。

「あら、どうしたの?」

お母さんが心配そうに尋ねてきましたが、彼女も旦那さんも娘達も私の変化には気付いていないようです。
だとしたら、この現象は私だけにわかる「間もなく時間切れ」を示すサインなのかもしれません。目的は達成された以上、もうこの時代には長く留まっていられない……みたいな。
であれば、ここは名残惜しいですが。

「ああ……ごめんなさい。私はちょっと用事があるので、すみません」

そう謝らざるを得ませんでした。

「では、失礼します……えっ?」
「もう、行っちゃうの?」

衆目環視の中で、いきなり消えたら大ごとになる。急いで人目に付かない場所へ移動しようとしたら、なんと千歌ちゃんに服の裾を掴まれてしまいました。

「うん……ごめんね。もう時間がないの」
「また……逢えるよね?」

頭2つ分以上は背が低い彼女が、消え入りそうな声で尋ねてきます。
たった一時間にも満たない出来事だったとしても、彼女の中ではきっと大きな出来事だった。ならば、もう彼女は一人で立ち上がれるはずだから。

「うん。また必ず」

半透明な右手で、幼い千歌ちゃんの頭をそっと撫でてあげました。

「ずっと応援してるから、自分に負けちゃ駄目だよ」
「うん、約束する」

心無い者から悪意を向けられようと、大多数の者から関心を向けられなかろうと、彼女ならきっと乗り越えられる。そう信じて、もう一度拳の先をコツンと突き合わせました。

「では改めて、失礼します」

最後に高海家の人達へ一礼して、観客席を後にしました。

◇◇◇

「はっ……戻った、のよね?」

観客席を抜けて校舎の陰へと向かっていたのですが、途中で瞬きした瞬間、私の身体は自分の部屋にあるベッドに横たわっていました。

「んんーっ、何だったのかな……」

寝起き特有の全身の気怠さを考えると、夢にも思えます。
でも五感がはっきり働いていたことを踏まえれば、タイムスリップの線も否定できません。
枕元に置かれたデジタルの目覚まし時計に目をやれば、日付は11月4日の土曜日で時刻は午前5時45分。つまり私の二度目の睡眠時間と、8年前の沼津にいた時間はほぼ同じということ。

ひとまずベッドから起き上がって部屋の灯りを点け、室内を軽く見渡しました。机の上には、千歌ちゃんが描いた謎のゆるキャラが目印の「歌詞ノート」が置かれています。壁には2017年のカレンダーや、来週末の地区予選で着るジャケットが干されたハンガーが掛けてありました。
とりあえず「私や千歌ちゃんが、スクールアイドルを始めなかった状態になる」という時間改変は起こっていない。「ふぅ」と安堵の溜め息が零れました。

「そうだ、千歌ちゃんは?」

現代の彼女と別れてから2時間、さすがに注意を聞き入れてくれたとは信じたいけど……万が一を考えると、居ても立っていられなくなり外へ飛び出しました。

11月の早朝ともなれば外はまだ薄暗くて、山の方からようやくうっすらと明るくなり始めたばかりです。
ただ、長い夜が終わりもうじき夜明けが訪れる感慨に浸る余裕など、砂だらけになった練習着姿の彼女には無いみたいです。

「ぐあっ! いったぁーっ」
「大丈夫?」

ロンダートからバク転を決めようとするも、左右の腕のバランスが崩れ左側へバタンと倒れる千歌ちゃん。彼女が痛みに喘ぐ姿に堪え切れなくて、急いで駆け寄って右手を伸ばしました。

「梨子ちゃんっ!? なんでこんな朝早くに?」
「こっちの台詞よ、それは。『もう休む』んじゃなかったの?」
「へっ?どういうこと?」

自分がどうして注意されたのか合点がいかないらしく、両目と口を丸く開いてキョトンとする千歌ちゃん。

「千歌ちゃん、何時ぐらいから練習してたのか憶えてる?」

もしかしたら過去での出来事が原因で、2時間前のやり取り自体が書き換わってしまったのでは。そう予想して、彼女へ尋ねました。

「何時ぐらいからもなにも、ついさっき始めたばかりだよ」
「そう、なの?」
「そう、だよ」
「そっか。てっきり夜中の3時ぐらいからやってたんじゃないか……って」

予想は的中、2時間前の言い争いは「なかったことになった」みたいです。

「ずいぶんピンポイントで当ててくるね、梨子ちゃん。実はね、夜中に一度目が覚めちゃったの。んで、目覚ましを見たら3時だったんだよ」
「へぇ、なんか嬉しい」

別段ピタリ賞で何か貰える訳ではないにしても、好きな人に関することを言い当てられたらいい気分になりません?

「最初はね『早く出来るようにならなくちゃ』って焦る気持ちが湧いてきて、毎日5時間ぐらいしか眠れなくなったんだ。でも『陽が出るまでは休んだ方がいいよ』って注意もされたし、眠れないなりにそうすることにしたの」
「それで、2時間も眠れないでいたの?」
「ううん、途中で意識は飛んじゃった」
「そっか、ならしっかり休めたみたいね」

どうやら私が千歌ちゃんへ掛けた言葉は、もっと早いタイミングで彼女へ伝えられたようです。目の下にあったはずの隈も消えていて、睡眠不足は無事解消されたとみて間違いなさそうでした。

「あぐぅ……うわっ、頬切ったみたい」

とはいえ、連日の疲れが残っていることに変わりはなさそうで、さっき転倒した際に打ちどころが悪かったようです。

「うう、痛そう。平気?」
「うん、平気。ハンカチもあるし」

千歌ちゃんがズボンのポケットから、みかん色とピンク色のツートンカラーのハンカチを取り出しました。

「あっ、それって……」

紛れもなく先週末、行きつけの雑貨屋さんで貴女がプレゼントしてくれたお気に入りの逸品であり。
同時に8年前、障害物競走で貴女へ貸したまま忘れていた「あの出来事が現実である」という証。

「これ?先週末に押し入れの整理してたら出てきたんだ。確か小3の運動会の時だったっけなぁ……優しいお姉さんが貸してくれたんだよ」
「んで、返し忘れた、と」
「ま、まあ。もうはっきり憶えてないけど、向こうも急ぎの用事があったっぽいから」
「へぇ、おっちょこちょいな人だったんだね」

……まあ、私のことなんですけどね。

「はぁ……やっぱり情けないな、わたし」

右手で頬の傷を押さえながら、千歌ちゃんが溜め息を吐きました。

「そんなことないって。『あと一歩』ってところまで来てるし、もう少し練習すれば──」
「ううん、そっちのことじゃなくて……もっと長いスパンの話」
「長いスパン?」

意味することがわからなくて、オウム返しで質問しました。

「わたしね、そのお姉さんへ顔向けできる資格ないから」
「……どうしてそう思うの?」

「そのお姉さん」としては、彼女が沈んでいるのを放っては置けません。

「お姉さんの言葉をきっかけに、色んなことを始めたんだ。ソフトボールに卓球、スポーツ以外にもイラストとか小説とかも」
「へぇ、ほんとに色々やってたんだね」

あの不思議な出来事を契機に、千歌ちゃんは変わろうと行動を起こし始めた。素敵な機会を与えてくれた神様へ「ありがとう」の気持ちが膨らんできます。
ところが、その気持ちはすぐに萎んでしまいました。

「でもね、全部途中で投げ出しちゃった。上手くなる前に『わたしには向いてなかった』って」
「千歌ちゃん……」

もしかして私は彼女のトラウマを解消するどころか、余計に拗らせる原因を作ってしまったのでは。
私は長らくピアノ一筋を貫いてきたから、何かを志半ばで諦めた経験はないけれど。音ノ木時代の友人達の話へ耳を傾ければ、その悔しさは想像に難くありません。
結果を出せている人と自分を比べたり、あるいは第三者から比べられて気落ちしたり。
なかなか要領が掴めなくて、楽しさより悔しさや情けなさが勝るようになってしまったり。
はたまた周囲からの期待がプレッシャーになって、応えられないことに堪えられなくなったり。
でも人によって持っている才能や、置かれた環境は千差万別。本来は比べてもしょうがないのです。

「なんでもかんでも中途半端で、すぐ諦めちゃうわたしなんて呆れられるに決まってるよ」

だから顔を俯け自分を責める千歌ちゃんへ、はっきり「そうは思わないな」と答えました。

「へっ!? いや、梨子ちゃんのことじゃなくて──」
「う、うん。『もし私がそのお姉さんだったら』ってこと」

内心「何を隠そう、私がそのお姉さんなんだよ」と教えてあげたいところです。
でもさすがに「8年前の運動会の日までタイムスリップしました」なんて話したところで、とても信じてはもらえないでしょう。

「過去のことばかり気にして、くよくよしてても何も変わらないよ。自分が楽しいって心から思えることを、続けてゆけるのが一番だもの」
「だよね。今はキツいけど、みんなで踊ったり歌ったりするのは楽しいもん」
「でしょ。だから続けられてるんだもんね」
「うんっ、もちろんだよ!」

数日振りに千歌ちゃんが心から笑ってくれたようで、こっちも釣られて頬が弛んでしまいました。

「さっ、練習再開!」と彼女が意気込んで立ち上がったところで、沼津方面からジャージ姿の女の子が4人、こちらへ走って来ます。
赤地に白と黒のラインが入ったあのデザインは、確か静真高校──統廃合が確定した際の統合先──のはずです。

「やっほー、千歌。朝からお疲れさん」
「やっほー、詩織ちゃん。それに陸上部のみんなも」
「あっ、まさか」

その4人とは疑いようもなく、8年前の運動会で千歌ちゃんを馬鹿にしていた虐めっ子達の成長した姿でした。

「ってお前、ボロボロじゃん。あんまり無理するんじゃないよ」
「千歌が頑張ってるの、わかってるからね。地区予選、応援しに行くからね」
「うん、ありがとね」

かつては自分を貶していた娘達が、今や自分を励ましてくれる。千歌ちゃんが何かを諦める様を何度も見てきたはずなのに、彼女達は決して見限るようなことはしなかった。
応援してくれる仲間がいるという事実に、お姉さん思わず泣いちゃいそうですよ。

「ところでそっちの彼女、桜内梨子さんですよね?」
「ええ。Aqoursの作曲担当、桜内梨子です」
「いつも千歌がお世話になっております。今後もアイツのこと、温かく見守ってやってください」
「いえいえ。私の方こそ、いつも千歌ちゃんから元気を貰っていますので」
「いやいや、三者面談じゃないんだから」
「「……あっ」」

千歌ちゃんのツッコミで、私と詩織さんは「お母さんから娘を任せられた先生」さながらのやり取りをしていたのに気付き、唖然としたのでした。

「んじゃ、これ飲んだら再開しよっと」

詩織さんから貰った差し入れのみかんジュースで、たちまち元気溌剌になる千歌ちゃん。彼女が普段通りのテンションに戻ってくれたようで何よりです。

「梨子ちゃん、いつも見守っててくれてありがとね」
「どうしたの? 改まって」
「いや、だってね。どんなに苦しかった時も辛かった時も、梨子ちゃんが隣で励ましてくれたから頑張れたところがあるから」
「千歌ちゃん……お互い様よ、それは」

私だってピアノ関係のことはもちろん、日頃から色々助けてもらっているのだから。
今は彼女が壁にぶつかって大変な時だけど、きっと乗り越えられるって信じています。

残酷かもしれないけど、世の中は結果が全てです。
声を大にして「私は誰よりも努力しています」「一生懸命練習しています」と訴えようとも、人々が評価するのは本番で提示された最終形なのだから。
だからこそ、この特訓が誰の目から見ても明らかな形となって、実を結んでほしい。そう願わずにはいられません。
私も溢れんばかりの貴女への想いを、きちんと声に出して伝えます。
ただ胸の内に秘めたままでは、自分の気持ちは伝わらないから。

「頑張ってね、千歌ちゃん。私が応援してるから、ねっ」

終わりです。

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